2012年3月13日火曜日
アッシリアの歴史
先史、初期 アッシリア帝国が栄えた土地には、旧石器以来人類が住んでいた。
前6千年紀には灌漑によって形成された村落が出現した。
また、前5千年紀には、ハッスナ、ハラフ、サーマッラーの3つの文化圏が確認されている。
前3千年紀の前サルゴン期には、膠着語を話す、定着原住民スバル人の上に東セム系遊牧民が支配的要素として加わった。
この時期、都市アッシュールが建設された。
アッカド王国時代にはサルゴン王らによって征服され、ニネベに神殿が建設された。
当時アッシリアは、シュメール語でシュビル、アッカド語でスバルトゥと呼ばれた。
前2000年期 前2000年紀は、古アッシリア時代とも呼ばれる。
この頃からアモル人の浸透を受けた。
主要都市としては、アッシュールの他にニネベ、ウルビルムなどが栄えた。
また、この頃書かれたアッシリア語は、同じアッカド語の主要方言であるバビロニア語とは著しく異なる独自のものだった。
前19世紀には、小アジアにアッシリア人の商業植民地カニシュやハットゥサが建設され、アッシュールと交易活動を行っていた。
政治では、シャムシ=アダド1世がアッシリアに初めて大きな政治的統一をもたらし、北メソポタミアのほぼ全域を支配した。
しかし、次世代にはバビロンのハンムラビ王によって征服され、以来フルリ人の侵入を受けていた。
前15世紀、アッシリアはミタンニ王国の属国となった。
しかし前14世紀の中頃、アッシュール・ウバルリト1世が登場、アッシリアは強い政治力を持つことになる。
彼はヒッタイト王と手を結び、1350年以降ミタンニを攻撃して北部メソポタミアを回復、富強な王国を復活させた。その後、自ら大王と名乗り、エジプトと対等に交渉、バビロニアの政治にも介入した。
また、王はスバルトゥと呼ばれていたアッシリアを「アッシュールの地」と命名した。
その後6代の間、アッシリアには優れた王が立ち、国力は発展、強国の地位を確立した。
前13世紀末、トゥクルティ=ニヌルタ1世の時代には、短期間だったがバビロンを支配した。
しかし次の代から、一部の成功(ティグラト=ピレゼル1世の地中海進出)を除き、アッシリアは西方諸民族(アラム人やルルビ族)の侵略に遭い、領土はティグリス川流域の狭い地域に収縮した。
前1000年紀 前1000年紀初め頃、半遊牧民アラム人がアッシリアに侵略してきた。
アッシュールダン2世がアラム人や山岳民族を鎮圧、
次王アダドニラリ2世からは征服事業を再開する。また、彼は農業改革も行った。
その孫アッシュールナジルパル2世は、初の騎兵隊の導入により北方貿易路を確保、シリアなどを属国とし、小アジアの鉄、アマヌス山脈の銀、レバノンの杉を手に入れた。これにより、アッシリアは古代オリエント有数の大帝国となった。また、王は反乱住民に対する残虐な行為(串刺し、皮剥など)、大量強制移住政策などを行い、アッシリアは「アッシリアの狼」の名で知られた。しかしこの王は、バビロンに対しては武力攻撃をあまり行わず、周辺の先進地域との交易・文化交流を進めた。またカラク(ニムルド)を再建して首都とし、帝国の文化センターとした。
次王シャルマネゼル3世は、さらに領土を広げた。優秀な役人達は、優れた行政事務で新たな征服地を治めた。
しかし、王の死後数十年間、アッシリアは衰退期を迎え、それまで属国であった北方領土の大部分とシリア全域を失うことになる。
●世界帝国時代●
ティグラト=ピレゼル3世は、軍事クーデターによって王座を手にした後、軍政の大改革や軍備改善、大都市の免税特権の廃止などの内政改革を行い、大遠征を行った。●大遠征●
北方……ウラルトゥを撃退。
西方……ダマスクス、シリア、キリキア、フェニキア、ユダヤを攻略。エジプト国境まで領土を拡大。
北西方……マンナイ人、キンメリア人を討つ。
東方……アゼルバイジャン地方まで出兵。メディアの一部を領土とする。
南方……バビロニア王を兼ねた。
次王シャルマネゼル5世はサマリアを攻略し、イスラエル人を強制移住させた。この王は暗殺されたと言われているが詳細は不明である。
その次からの4代(サルゴン2世、センナケリブ、エサルハドン、アッシュールバニパル)の時代はサルゴン朝と呼ばれる。この間、約90年「世界帝国」の名は守られた。特にエサルハドンの時代には、領土はイラン西部からエジプト本土全域にまで及んだ。●世界帝国を実現できた要因●
140年間の長い間「世界帝国」を支えることができたのはなぜか。
・メソポタミアの2大幹線通商路を支配した事
・征服地からの奉納品、交易路への税徴収によって巨額の利益を得た事
・大規模強制移住策の強行
遠くの征服地の住民達をアッシリア本土へ移住させ、また、帝国内の他地域の住民を再定住させた。
・徴募・装備、戦術・訓練全てにおいて優れた常備軍の維持
・王達
アッシリアの歴王が戦略・戦術に秀で、統治力、指揮力、残虐性を併せ持っていた。
……などの事が理由として挙げられる。
しかし、エジプトやバビロニアの反発、メディア人やカルデア人・スキタイ人の圧迫に遭い、
前614年にアッシュールが、
前612年にニネベとカラクが陥落。
アッシリアは前609年に滅亡した。●滅亡の原因●
直接の原因となったのは、メディア人やカルデア人・スキタイ人の圧迫である。
しかしそれらがアッシリアを滅亡させるまでの大きな災害となりえたのは、ひとつにアッシリアの軍事組織が疲弊していた事が大きな要因となっている。
そして軍隊が疲弊していた理由は、エジプトやバビロンの反発と団結である。
アッシリアは巨大な領土と強力な政治力を手に入れ、エジプトやバビロンを支配した。しかし遠く離れたエジプトや、同根の文化を持った先進地域バビロン、それら伝統ある地域の支配への深入りは彼らの反発を招いた。彼らが反抗し始めれば当然、アッシリアは軍をそちらにさかなければならず、結果として北方・北東方の守りをゆるませる事になり、外敵に付け入る隙を与えてしまったわけである。
歴代の王達シャムシ=アダド1世 Shamshi-Adad I
在位:前1813頃~1781頃
アッシリア帝国を築いた西セム系のアラム人。
バビロンのハンムラビと敵対した。初めヤハドゥン=リム没後のマリを占拠して、次子ヤスマク=アダドを副王にしてそこを譲り、息子イシュメ=ダガンをエカルラトウムの王にして版図を拡大。北メソポタミア全土を支配した。
マリ宮廷書庫から300編以上もの王や息子達の書簡文書が発見されている。
アッシュール・ウバルリト1世 Ashur Uballit I
在位:前1360頃
ヒッタイトと連合してミタンニから独立。その後カッシート人と結んでヒッタイトとフルリ人を退けた。また、バビロニア一帯を支配下にし、アッシリア第一帝国の基礎を築いた。
アッシュールナジルパル2世 Ashurnasirpar II
在位:前884~859
アッシリア名はアッシュール=ナジル=アプリ(「アッシュール神はわが息子の保護者」という意味)。
トゥクルティ=ニヌルタ2世 の幾度にもわたる遠征を引き継ぎ、新アッシリア帝国を創設した。
捕虜たちを使ってカラクを再建し、前879年に首都をニネベからカラクへうつした。前 871年までに主要な宮殿、各神殿城壁などを完成し、記録によればこの際、約7万人が参加して10日間続いた大宴会が開催されたらしい。
シャルマネゼル3世 Shalmaneser III
在位:前859~824
アッシリア名:シュルマヌ=アシャリドゥ
在位中に、シリア全域とパレスチナ、バビロニア北部にまでアッシリアの覇権を確立。
大英博物館蔵の『黒のオベリスク』に記録されているカルカルの戦い (前853) を、シリアのダマスカスを盟主とする同盟軍に対して行った。
ティグラト=ピレゼル3世 Tiglath-Pileser III
在位:前745~727
アッシリア名:トゥクルティ=アパル=エシャラ
前745年、軟弱な兄弟(アシュール=ニラリ5世)を廃して王となり、改革を行った。
独立の動きを見せる広大な州を分割し、各州に王直属の行政監督官を配置。州を監督指導させ、同時に全国に諜報機関をめぐらした。前738年までに80の州が成立、強力な中央集権体制を確立した。
外交としては、ザムアとメディアを制圧、ウラルトゥを破り、アルパードの首都を攻略、全シリアとパレスチナの国々を従属または撃破、イスラエルをも従えた。また、バビロンを攻略しその王位についた。
サルゴン2世 Sargon II
在位:前722~705年
「サルゴン」とは、「王は正統」という意味。
アッシリア帝国最後の王朝を創始した。
前721年シリアの反アッシリア連合と戦い、前714年ウラルトゥに侵入しその都を占領。前713年アシュドドを盟主とした反アッシリア連合に勝利。前 710年、バビロニアからカルデアの指導者メロダク=バラダン2世の勢力を一掃。前707年キンメリ人に勝利。
新首都ドゥル・シャルルケーン(現在のコルサバード)を、ニネベの東16kmに建設した。
彼は実は、クーデターで廃された前王シャルマネゼル5世の弟とも言われている。
センナケリブ Sennacherib
在位:前705~681
着位そうそう諸部族による反乱が相次ぎ、前703年バビロニアの反乱を平定、前701年パレスチナの反乱を鎮圧。前694年、バビロニアの反乱の首謀者によってバビロンを奪われるが、前689年バビロンを攻略、以後この宗教中心地との宥和政策を捨て,バビロンを寇掠破壊した。
アッシリアの首都をニネベとし、捕虜を用いて城壁や神殿を造った。
前681年、子に殺害された。
エサルハドン
在位:前681~669
アッシリア名:アッシュール=アヘ=イディンナ
バビロンの総督であったが、前681年兄弟によって父王が暗殺されたため、兄弟の軍を破り王位につく。親バビロニア政策をとり、バビロンを再建した。スキタイ人と通婚して和を保ったが、キンメリ人に北西部の州を奪われた。前671年のエジプト侵攻でメンフィスを落しヌビアまで征服した。エジプト・アッシリアで起こった反乱を鎮圧しようとしたところで没した。
アッシュールバニパル Ashurbanipal
在位:前669~630
祭政、文芸、諸外国語に通じた教養のある人物だった。前669年即位し、エジプトに遠征。エジプト王タハルカの軍を撃退した。その後シリア諸国やメディアの反乱、兄でありバビロンの封侯のシャマシュ=シュム=ウキンの反乱などを平定。
首都ニネベの王宮に古代近東では最初の大図書館を建設。図書館には百般もの古文書 (タブレット) を収蔵した。
アッシュール・ウバルリト2世 Ashur Uballit II
在位:前611~609
アッシリア帝国最後の王
前612年、ニネベが陥落。その後ハルランで再起を企図したが制圧され、エジプトと同盟してハルランの再征服を試みたが成功せず、結局前609年アッシリアは滅亡した。
資料元:http://contest.thinkquest.jp/tqj2000/30256/civilization/assiriya/history.html#early
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